~真の心の安らぎとは、私利私欲に満たされた時ではなく
自己反省と寛大な慈悲の気持ちが芽生えた時に初めて得られる~
あんなに暑い日が長く続いた夏も終わり、足早に通り過ぎた短い秋、そして季節は冬を迎え今年もいよいよ最後の月-師走となりました。
そして私事ではございますが、今月ついに還暦の60歳を迎え、その心は‥と人に問われたならば、単に馬齢を重ねてきただけのことで、その道は至らないことばかりの連続だったのではないかという自責の念に堪えません。
人が生きていくうえで大切なことは、計画や目標を持つことなどと言われますが、それには「何のために」という公明正大な目的が必要です。しかし、この目的の持ち方を誤ってしまうと、あらぬ道へ向かってしまいます。つまり公明正大とは程遠い他人を羨んだり妬んだりする心や自分さえよければという利己的な心に覆われた目的となってしまうのです。
私自身、今までの人生を振り返ってみたときに、そのようなことがあったんじゃないか、それに気づけなかった自分が恥ずかしい‥最近素直にそう思えるようになりました。しかし孔子の論語にある「過ちを改めざる‐これを過ちという」の言葉どおり、自分の過ちに気づき、反省をし、新たな一歩を踏み出す勇気も生きていくうえでは必ず必要です。
人は大なり小なりの失敗や過ちを犯すもの。肝心なのはそれをその後の人生にどのように活かせるか。人が生まれ変わるその時が還暦だと言うならば、今こそがその時で、自分の60年の人生を大いに反省して、何事にも感謝と慈悲の気持ちと謙虚な姿勢を忘れずに生きていければと思います。
そこで近いうちに日本人の総氏神「天照大神」が祀られている伊勢神宮に足を運び、還暦のご報告と残された人生を少しでも安らかな気持ちで過ごせるよう手を合わせて参ります。
あれはコロナが蔓延する少し前のころだったでしょうか。ある先生が私のもとへやってきてこう告げました。
「あの~ご相談したいことがあるんですが‥今よろしいでしょうか?」
直立不動の緊張した面持ちで私の前に立つ彼は、何やらただならぬ雰囲気を醸し出しながら意を決したようにこう続けました。「実は‥好きな人がいてプロポーズしたいんです」私はすかさずこう答えました。「俺は無理だぞ。妻子ある身だし‥あきらめてくれ」
私の返事に驚き唖然とする彼。まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔でした。そこで私は「なんでやね~ん!」と自分のボケを自分で突っ込むというひとりボケ突っ込みを演じてその場の空気を和ませた次第です。
さて本題。その先生の相談とは婚約指輪にいったいいくらぐらいかけたら‥?ということでしたが、さて皆さんならどう答えますか?
わたくしは常々こう考えています。-世の中で最も価値があるものは決してお金では買えない-いったいそれは何かといえば「愛」です。子供達が大好きなアンパンマンは愛と勇気が友達ですし、喜劇王のチャップリンは人が生きていくために必要なものは勇気と想像力そしてほんの少しのお金と言いました。お金はほんの少しでいい。それよりももっと大切なものは「愛」だと私は思います。浜田省吾「丘の上の愛」の歌詞はこうです。
♪愛が買えるなら その涙の理由(わけ)をきかせて そのためいきの理由(わけ)をきかせて♪
無償の愛に満ちたパートナーや子供、そして家族。無償の愛に包まれた場所こそが人を幸せにする。そして、その場所はあなたのすぐそばにきっとあるはずです。
※ちなみに彼にはこう答えました。お金で買える指輪よりもお金で買えないあなたの言葉で一途な思いを告げなさい。
早くしなさい!」「何度言ったらわかるの!」「もう、いい加減にして!」これらは親が子供を叱りつける代表的な言葉ですね。もちろん恥ずかしながら、私も子育て中は何度もそう言ってきた気がします。親は子供の至らないところを正すために叱るわけですが、そんな親の願いや思いはほとんど伝わることなく、子供にしてみたら、ただひとりでイライラしている親の姿しか映らないようです。ある本に掲載されていた次のような子供の詩を見て、あらためてそのことに気づきました。(タイトルに「おかあさんは‥」とありますが、母親だけに責任転嫁しているわけではありませんので、お母様方はどうかご容赦ください(笑))
おかあさんは たいふう
きのう たいふうがきて 木がたおれました
はっぱも ぐちゃぐちゃでした
ぼくのママも こわい たいふうです
ぼくも たおれています
だけど きょうは いいてんきです
「三つ叱って七つ褒めろ」という言葉を聞いたことがあります。どんな立派な大人だって子供の頃は叱られた経験があるはずですし、子供は大人のように出来ないから「子供」なのです。それが子供本来の自然な姿だと私は思います。どうしても叱らなければならない時はありますが、毎日毎日叱りっぱなしだったり、長々と叱るというのは、如何なものかと‥。なぜなら大人も出来るはずのことが出来ない時もあるし、誤解を恐れず言うなら至らない点もたくさんありますもんね。子育ての要諦とは、出来たことはしっかり褒めて、出来ないことは出来るまで辛抱強く待つ。「褒めて認めて励まして」の気持ちをもって、実り多き秋の行楽シーズンを楽しくお過ごしください。
やりたい放題に暑さを放った夏もさすがに9月に入れば「私、このあたりで失礼いたしま~す」と言って、帰り支度を始め、そそくさとお引き取りいただけるはずと思いきや、、、、「おい、おい、まだそこにおったんかーーい!」と突っ込みたくなるような残暑が続くのは何ざんしょ。(なんちゃって)
さて、本題に入りますが51対49。いきなりバスケやアメフトのスコアみたいな数字ですが、何だかわかりますか?実はバスケやアメフトではなく、子育てのスコアなのです。100%のうち、49%だめでも51%うまくいけばいい。つまり100対0の圧勝ではなく手に汗握るようなギリギリの勝利でOKということです。
子育てに悩みがつきものなのは言わずもがなです。子どもが成長するにしたがって悩みの種類も多様化します。問題に直面したならば、悩みに悩んだ末の判断や決断を下して子どもを教育していきます。しかし、なかなか問題が解決しない時に思うのです。「果たして私の判断は正しかったのだろうか???」
もしあなたが「あ~すればよかった…こ~すればよかった…」と後悔することがあるとしたら、次のように考えることをお勧めします。もともと子育てに全問正解はないのです。地域や年代など子どもが育つ環境はさまざまです。子どもを育てる親が子どもとして育った時代と今の子どもの時代は明らかに違います。兄弟姉妹で性格も違います。そんななかで常に正解を導き出すことは不可能なのです。
「思い通りにならないことを教えてくれた人、それは親でも先生でもなく我が子でした」そんな笑い話があるくらいですから、思い通りにならないことだらけの子育ての現実をしっかりと受け止めて、その中でもひとつふたつぐらいは思い通りになる喜びを見つけることが子育ての秘訣のようです。
ある施設で介護士をしている私は、今まで幾人かの高齢者を見送ってきました。その中で「大丈夫の力」を教えてくれたおばあちゃんのことは、けっして忘れることができません。
その方が施設に入ってきた時、私はある悩み事を抱えていて何もかも嫌になり仕事を続ける元気もなく「もう辞めたい」と何度も思い辞表をいつも持ち歩いているような毎日でした。
そんな私を心配してなのか、そのおばあちゃんは、私の顔を見かけるたびに「大丈夫?」と声をかけてくれました。ぜんぜん大丈夫なんかじゃないのに、おばあちゃんに「大丈夫?」って訊かれると、ついつい「大丈夫です‥」って答えてしまう私に、おばあちゃんはやさしく微笑みながら、こんな話してくれたのです。
「あのね、あなたが大丈夫なんかじゃないことぐらい、私にはわかっていますよ。だってその顔にちゃ~んと書いてあるもの。そして‥これ。あなたのポケットからさっき落ちたのを私が拾ったの」「あっ、それ‥」「そう、あなたの辞表。拾ったのが私でよかったわ」「す‥すみません‥」
私の主人はね、ガンでずいぶん前に亡くなったんだけど‥。末期の激しい痛みに耐えながらも、いつも私に「大丈夫か?」って訊くの。自分がいちばん辛くて大丈夫なんかじゃないのにね‥。だから、ある時「どうして?」って訊いたの。そしたら「大丈夫って言葉はすごい力を持っている。自分が大丈夫じゃなくても、人に「大丈夫か?」と訊いて「大丈夫」って返事されると自分が大丈夫になった気がするんだ。」ですって。私は涙が止まらなくてね。だから最期は「いっぱいの大丈夫をありがとう」って言って主人を見送ったの。大丈夫って言葉はきっと自分やみんなの心に元気を与えてくれるから、あなたもできるだけ多くの人に「大丈夫?」って声を掛けてほしいの。自分が大丈夫じゃなくても、まわりの人に「大丈夫?」ってね。それができるようになれば、あなたはきっと「大丈夫よ!」
今の私があるのはおばあちゃん‐あなたのおかげです。「いっぱいの大丈夫をありがとう」