「川の水は、岸があるから流れるのではない。水の流れがあるから岸ができるのだ」
これは私の尊敬する教育者-東井義雄先生の言葉です。川の水を子供、岸を幼稚園と置き換えるとよくわかります。岸というのは川上から川下へ流れる水に沿ってはじめてできる。つまり、いつでも主役は子供達です。その子供達のために幼稚園はあるのです。決して幼稚園のために子供達がいるのではありません。当たり前のことですが、この原点を見失わないことがとても大切だと思います。
もちろん、基本的な生活習慣やしつけに関しては盤石な川岸に水を流す必要があると思いますが、それ以外に関しては、子供は十人十色であらゆる可能性があるからこそ「あなたはこう流れるべきよ!」と大人が決めつけた岸に流すのではなく、自ら流れたい方向に進めるような環境を整えてあげる。そうすることで幼稚園にはたくさんの川の流れができ、そこにはキラキラと輝く澄んだ水が絶え間なく流れていく。まさに「みんなちがってみんないい」の世界です。また詩人-高村光太郎は「道程」の中でこう言っています。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
人は誰しも自分だけの物語の作者です。主人公はもちろん自分自身。「私の人生」という水の流れに沿った岸をつくっていく。時には曲がりくねったり、急降下して大きな滝になったり、日照りが続き干上がってしまいそうになっても、それぞれの出来事は物語のオリジナル性を高めたり内容を深めるために欠くことができないエッセンスになるのです。
さながら幼稚園の子供達は卒園する頃までが物語の第一章になるのでしょうね。ですから始まったばかりの物語はまだまだ続きます。そしてその結末は、読者はもちろん、作者自身にもわかりません。それが自分の人生であり「世界でたったひとつだけの物語」となるわけですからね。でも目指すべき結末はもちろんハッピーエンド。たとえほんのちょっとの幸せでもいいから最後が〇で終わる物語にしてほしいと思います。
暦は2月、何か新しいことが始まるのが1なら、そこから次の展開が始まるのが2です。1も大事ですが、1の次に2があるかないかが私はとても大事だと思います。そして何より2という数字が日本にとても馴染んでいる気がするのです。なぜなら‥‥ここは二ホン(2本)ですからね(笑)
冗談はさておき、かっこいい男性をイケメンと言いますが、かつては二枚目と言いました。かっこいい存在が一枚目ではなく、なぜ二枚目なのか‥?これを調べてみますと、由来は江戸時代の梨園(歌舞伎界)まで遡ります。当時は歌舞伎に出演する役者を一枚目から八枚目まで分けてその役目を表した。一枚目が主役で二枚目が若くて美男子で色男、そして三枚目が今で言うお笑い担当というわけです。
また1ではなく2ということは、単品ではなくセットになるので、何となくお得感が生まれてきませんか。飲食店で〇〇セットというのは今や定番メニューですよね。私も若いころは単品よりもセットを注文して満腹感を味わったものです。
野球で2番のポジションと言えば、守備の要であるキャッチャーですし、サッカーで2番のポジションは、センターバックと言いゴール前の真ん中の位置で相手ゴールを阻止する大事な役目を担う存在です。つまり2という数字はひとつのものをさらに大きく広げて、それをまとめるという調和や統合の意味があり、たったひとつではない、という安心感や温もりさえ与えてくれる包容力ある存在なのです。
「♪ひとりじゃないって~すてきなことね~♪」昭和のアイドル-天地真理のヒット曲にもあるように、もしあなたに「ひとりぼっちではなく、誰かがそばにいてくれたことが、何よりも心強かった」という経験があるとするならば、それが2の持つ偉大な力ではないかと思います。1が2になることで喜びは2倍、悲しみや憂いは2分の1になる。まだまだ寒い日が続く季節だからこそ、1ではなく2の安心感とほっこりした温もりで寒さをしのいでみてはいかがでしょう。
~初ごよみ 知らぬ月日は 美しい~
何か新しいことがはじまる時を色に例えるなら、その色は、きっと白だと私は思います。新年を迎え、お気に入りのカレンダーや手帳をはじめて開いた瞬間、目の前に現れるのは、延々と雪が降る長い夜のトンネルを抜けた朝、あたり一面が真っ白に包まれ、まるで時が止まったかのような静かで美しい景色。絵画に例えるならば、これからはじまる一年の日々がさまざまな色で描かれる前のまっさらなキャンバスとでもいいましょうか。
さて、昔から家庭や会社で一斉に取り組む恒例の年末行事と言えば大掃除ですが、そのルーツと言えば、すす払いだそうです。電気やガスのない時代、家の中はかまどや囲炉裏から出るすすで真っ黒になる。そこでこれらの汚れをきれいに掃(はら)い新年を迎える。これはまさしく新しくはじまる時を白で迎えたいという気持ちの表れなのでしょう。ちなみに「はらう」という言葉は漢字で「祓う」とも書き、掃除で汚れを掃うとは家中の「穢(けが)れを祓う」という厄除けの意味も含まれるそうです。また私が若いころ、ある先生からこんな話を聞いたことがあります。
「トイレや花壇がきれいな学校は 決して荒れることがない」
生徒はもちろん先生も一緒になって黙々とトイレを掃除する。そのような学校で生徒が荒れるはずがありません。また「凡事徹底」で有名なイエローハットの創業者‐鍵山秀三郎氏も自らトイレ掃除を実践し「日本を美しくする会」を通じてトイレ掃除がもつ魔法の力を全国に広めていきました。学校の花壇もしかりです。花は枯れ雑草が伸び放題の花壇は生徒の心をもかき乱し気が付けば手が付けられないほど荒廃した学校になってしまう。
花のような人生を送りたければ花壇の世話を、そして新しいはじまりはいつも純白の心で迎えられるように身の回りの掃除を通じて心を磨ける一年になればと願っています。
令和6年師走、間もなくクリスマスを迎えようとする寒い夜に、今年もまた、あのふたりのおっさんが屋台でしんみりお酒を飲んでおりました。
A「しかし、何やなあ~。最近はインフルエンザが大流行しとるらしいな」
「コロナが落ち着いたと思えば、今年はインフルかいな‥」
B「ほんまやな‥」
「そー言えば、お前もかかっとったな?インフル。大丈夫やったんか?」
A「おう、今はすっかりよーなったけど‥あの時のしんどさって言うたら‥」
B「そら、そーやろな。で、なんがいちばんしんどかった?」
A「嫁はん」
B「はあ? なんや、それ‥。どういうこっちゃ?」
A「聞いてくれるか‥あれは俺が熱を出して帰宅した時のことや。ほんまにしんどかったから、嫁もすぐ気づいてくれてな‥」
B「ほう、そりゃ心配しはったやろ?」
A「ふつうはそうや。「あなた、大丈夫?」とかな。そやから俺はその言葉を期待して「熱がある」って嫁にいうたんや」
B「ほう、それで?」
A「最初に発した言葉がこれや。「げーっ!マジ?!」」
「そっから次から次に出るわ出るわ。「なんで?」とか「もう、最悪!」とか「絶対うつさないでね。子供の発表会が近いんだから!」」‥‥‥「まるで俺は‥バイ菌や」
B「くわばら‥くわばら‥」
「女は弱し、されど母は強し」これは「レ・ミゼラブル」で知られる文豪ユゴーが残した言葉です。どんなにかよわき女性でも、わが子を守るためには、たとえ火の中、水の中、あらゆる困難をも蹴散らす力を発揮する。というわけで‥世の中のお父様方、年末年始にむけて何かとお忙しいとは思いますが、くれぐれも体調を崩されませんようご注意ください(・ω・)。
~真の心の安らぎとは、私利私欲に満たされた時ではなく
自己反省と寛大な慈悲の気持ちが芽生えた時に初めて得られる~
あんなに暑い日が長く続いた夏も終わり、足早に通り過ぎた短い秋、そして季節は冬を迎え今年もいよいよ最後の月-師走となりました。
そして私事ではございますが、今月ついに還暦の60歳を迎え、その心は‥と人に問われたならば、単に馬齢を重ねてきただけのことで、その道は至らないことばかりの連続だったのではないかという自責の念に堪えません。
人が生きていくうえで大切なことは、計画や目標を持つことなどと言われますが、それには「何のために」という公明正大な目的が必要です。しかし、この目的の持ち方を誤ってしまうと、あらぬ道へ向かってしまいます。つまり公明正大とは程遠い他人を羨んだり妬んだりする心や自分さえよければという利己的な心に覆われた目的となってしまうのです。
私自身、今までの人生を振り返ってみたときに、そのようなことがあったんじゃないか、それに気づけなかった自分が恥ずかしい‥最近素直にそう思えるようになりました。しかし孔子の論語にある「過ちを改めざる‐これを過ちという」の言葉どおり、自分の過ちに気づき、反省をし、新たな一歩を踏み出す勇気も生きていくうえでは必ず必要です。
人は大なり小なりの失敗や過ちを犯すもの。肝心なのはそれをその後の人生にどのように活かせるか。人が生まれ変わるその時が還暦だと言うならば、今こそがその時で、自分の60年の人生を大いに反省して、何事にも感謝と慈悲の気持ちと謙虚な姿勢を忘れずに生きていければと思います。
そこで近いうちに日本人の総氏神「天照大神」が祀られている伊勢神宮に足を運び、還暦のご報告と残された人生を少しでも安らかな気持ちで過ごせるよう手を合わせて参ります。