何となく 今年はよい事 あるごとし 元日の朝 晴れて風無し
石川啄木
新年あけましておめでとうございます。これから始まる一年最初の朝に晴れ渡った青い空を眺めながら、清々しい空気を思いっきり吸い込むと、何となく今年はよい年になりそうな予感がする。そんな気持ちを詠ったこの句が私は大好きで、毎年元旦に思い出しては「何事も大難は小難に、小難は無難に過ごせますように。そしてほんのちっぽけな幸せでいい。それをひとつでも多く感じることができる一年になりますように―」と願うばかりです。
しかし、春夏秋冬の一年を過ごす間には、いいことばかりではなく、冷たい雨や逆風に晒される日もあるでしょう。そんな時にはどうすればいいか?私なりの答えは二つあります。
ひとつ目は「食」です。美味しい物や自分の好きな物、普段はあまり口にできない高級な物でもいいし、ケーキやお菓子類でも構いません。逆境の中でも必死に頑張っている自分自身にご褒美をあげましょう。あえて言いますが、この際、体重を気にするのはやめましょう。ダイエットのことなどはきれいさっぱり忘れて、とにかく自分の大好きな食べ物をぱくぱく口に運んでみてください。
そうすれば「あら?!まあ~不思議!!」さっきまで重たく沈んでいた気持ちが徐々に軽くなってくるのがわかります。ぺちゃんこになった心が少しずつ膨らんでいくのがわかります。そこで二つ目の「笑」です。自分の好きなお笑い番組やコメディ映画を観て腹の底から笑いましょう。面白いから笑うのか?笑うから面白いのか?どちらにしても「笑う門には福来る」なので自然に笑える環境に身を置くことが大事です。ちなみに私のお勧めは吉本新喜劇です(笑)。あと、かわいい小動物に触れたり眺めたりするのもいいでしょう。きっとあなたの心を癒してくれ、いつの間にかニッコリと微笑んでいる自分に気づくことができます。
如何でしょうか。「食」と「笑」は偉大なり!このふたつは人を元気にする源です。いっぱい食べていっぱい笑って、今年が皆様方にとってすばらしい一年になりますように―。
川の流れは よどむことなく うたかたの時 押し流してゆく
昨日は昨日 明日は明日 再び戻る今日はない
あんなに暑かった夏は、まるで存在さえしなかったようにすっかり鳴りを潜めて、今では目に映るものや肌で感じるものすべてが冬以外の何ものでもないという師走を迎えたある夜、ふたりのおっさんが屋台でしんみりとお酒を飲んでおりました。
A「うーっさむ‥」「今夜はごっつう寒いで‥」
B「ほんま‥かなわんわ」
「ちょっと前までは“暑い暑い”言うとったのに」
A「そやな、今では二言目には“寒い寒い”って、ついつい言うてまうなあ‥」
B「ほんまやで。わてはもう“あつい”って言うこと‥ないと思うわ‥。って、
熱っ!熱っ!あつーっ!なんや!このおでん‥熱すぎやでえーっ!」
A「言うとるやん‥“あつい”って。ほんま、せっかちなやっちゃ‥」
せっかちだろうが、のんきだろうが、時というのはいつも変わることなく、たとえ「いったいいつまで続くの?」と感じていた時間さえも、確実に流れて行く。だからこそ今日一日を有意義に過ごすということも大切ですが、人生にはそれが出来ない日も必ずあります。つまり好調な時もあればスランプの時だってある。しかし、どんな時間さえも止まることなく未来へ流れて行くのなら、辛いことや悲しいことがあっても、あたふたせずに、たまには時の流れに身を任せてみてもいいのかも知れません。師走の夜、冷たい風に吹かれながら、過ぎ去りし酷暑の夏に思いをはせて、ふとそんなことを思いました。
以前、小欄にてお伝えした南米のアンデス地方に古くから伝わる「ハチドリのひとしずく」という話を今回あらためて皆様にご紹介したいと思います。
ある時、アマゾンの森で木々がメラメラと燃える火事が起きました。体が大きくて強い動物たちは慌てふためいて我先にと逃げまわっていましたが、クリキンディと呼ばれる小さなハチドリだけがそこに残り、必死でくちばしに一滴ずつ水を含んでは、燃え盛る森の木々に落としていきます。そんな必死の消火活動を繰り返すクリキンディを見て、他の動物たちは嘲るように笑いました。「そんなことをして森の火が消せるとでも思っているのか?」
するとクリキンディはこう答えるのです。「私は私にできることをしているだけ」
自分の身の回りのみならず世界中では、さまざまな問題がまさに森の大火のように燃えひろがっています。その炎の勢いがあまりにも強すぎて、我々はつい「自分の力ではどうにもならない」とあきらめたり「自分には関係ない」と見過ごしてしまうこともあるでしょう。
しかし、この小さなハチドリが黙々と水を運ぶ姿は、立ちはだかる大きな壁に直面した時に感じる無力感や脱力感に対して、どんな結果になろうとも「当たって砕けろ!」という勇気を与えてくれます。
また、ある有名な作家が遺した言葉に「たとえ世界の終末が明日であろうとも、わたしは今日、リンゴの木を植える」というのがあります。これは人というのは「どんなに絶望的な状況になったとしても決して人生を投げ出すようなことはせずに、せっせと明日へと繋がる希望の種を植え続けるべきである」と諭した言葉なのです。
この話に感化された某先生「私はたとえ明日が雨でも、やると決めたら絶対にやり遂げます」「ほう、いったい何を?」「洗車です!」「そ、そう‥。(それはちょい話が別ちゃうかな‥?)」
悲しみの涙を流している人を見た時、もらい泣きするのは悲しみの底の深さを知っているから。そして、その悲しみを奇跡的に乗り越えて歓喜のあまり流す涙を見た時に、再びもらい泣きするのは、悲しみの底で希望の光に巡り会えた喜びに心が震え感動するから。
むかし、こんな歌詞の歌がありました。「人は悲しみが多いほど 人にやさしくできる」
そのわけは以下の通りと私は解釈しています。
「人は涙をたくさん流すことで 心が洗われ 瞳が澄んでくる
だから 悲しんでいる人の傷ついた心が 痛いほど よく見えるのだ
そして その澄んだ瞳は いつの日か
悲しみの底で わずかに灯る 希望の光を 見つける力になるだろう」
― 私は幼かった頃、よく泣いた
悲しかったり 悔しかったり 寂しかったり
その度に めそめそ泣いた 父はそんな私を見て
よく叱ったものだ 「泣くんじゃない 男は泣いちゃダメだ」
でも・・母はちがった 泣いている私の頭を やさしくなでながら
「思いっきり泣きなさい 涙は心を ピカピカにしてくれるから
おめめと心が スッキリきれいになるまで いっぱい いっぱい 泣きなさい」
そう言って 私と一緒に 母も泣いてくれた ―
悲しみや喜びで心震える時に流す涙が、心を豊かにして感性を磨いてくれるとするならば、涙の力ほど偉大なものはありません。赤ちゃんから幼児期の子供がよく泣くのは、きっと「涙が心を育ててくれているのだ」と思えれば、泣いている子供への見方、接し方も変わってくるのかも知れませんね。
暦は深まりゆく秋を感じる10月ですが、毎年9月の敬老の日を迎える頃になると、あらためて思うことがあります。それは「何だかんだ言っても―ご高齢者の皆さんって、すっごくお元気!」ということです。その証拠に、先日、ある新聞でこんな驚きのポエムを見つけましたので小欄にてご紹介いたします。
今日はあちこちきれいにした 一人住まいも20年 わたしは100歳を超えた
台所も 一つ一つの引き出しも きれいにした とても気持ちよい
100歳の人生も 反省という手入れをして きれいに生きよう
「反省」というタイトルが付けられたこのポエムの作者は東京都在住、102歳の男性です。まさにあっぱれ!というか、最近、体がすっかり固くなり、座ったり立ち上がる時に「よっこらしょ」とか「「アイタタタぁ~」など、ついつい口に出してしまう私は、このポエムを読んで大いに反省したところでございます。(苦笑)
そんなある日のこと、「乙女会」という名の食事会に招待された小生。それは名前のとおり、わたくし以外の4名全員が“うら若き乙女”‥ではなく‥こともあろうに乙女とは程遠いイカツイこわおもてのおっさんが揃いも揃って、みんな9月生まれのおとめ座だという‥何とも“オーマイガッ!”な食事会です。
メンバーは83歳を筆頭に、ほとんどが後期高齢者の大先輩方なので60歳手前の小生などは“ひよっこ”でございます。ですからピヨピヨと鳴(泣)きながら先輩方のお相手をする訳ですが、おとめ座とは名ばかりのイカツイ強者揃いですから―。なかなか帰りません、というか帰してくれません。結局三次会まで宴は続き、ようやく帰宅した小生が這うように寝床に就いた時、サミュエル・ウルマンの詩の一節が頭に浮かんできました。「青春とは人生のある期間ではなく心の持ち方をいう」~先輩方、どうぞ、いつまでも青春でいてください~