昭和を代表する歌手―島倉千代子さんの歌にあるように、人生はいろいろです。例えて言うなら、生まれた時は真っ白だったキャンバスに年齢を重ねるごとに、あるいは、いろんな経験をすることにより、いろんな色やカタチを描いていく。そしてやがて人生の終焉を迎える時、真っ白だったキャンバスには、その人にしか描けなかった世界にたった一枚だけのオリジナルの絵が完成するというわけです。
生きるということは、毎年ひとつずつ必ず歳を取るということですが、そのプロセスにおいて人は、外見はもちろんのこと中身もどんどん変化していきます。その良し悪しは別として、うれしかったり、楽しかったり、悲しかったり、辛かったり‥という経験を通して描かれる色やカタチが次から次へと上書きされ続けていきます。
うれしい時や楽しい時の色は黄色やオレンジ、はたまたピンクでしょうか。逆に悲しみのどん底に落ちた時の色は黒でしょうか。グレーでしょうか。ブルーな気分なんて言葉もありますから、青だったりするかもですね。
世界的な名画と言われるさまざまな作品、例えば…ピカソやゴッホの絵を間近でよく見ると、あらゆる色がちりばめられていることに気づきます。そこには楽しい気分の色だけではなく、悲しくなるようなダークな色もある。まるで作者の悲喜こもごもの人生が、いろんな色に染まってキャンバスの中で息づいているようです。したがって絶望の淵にあるような暗い色も、全体を俯瞰して見れば、その絵にはなくてはならない重要な色だったりする。
つまり、絵画というのは、喜びも悲しみもひっくるめて生きている我々の人生そのもの。絶えず入れ替わる悲喜を日々経験すればするほど、その人なりの味わい深い人生となる。そしていよいよ今際の一筆を描いた時、自分だけの名画が完成するのです。人生は一枚の絵画。ぜひ皆様もたくさんの色やカタチをキャンバスに描き続けて、世界にたった一枚、あなただけのオリジナル絵画の完成を目指して日々お過ごしください。
教育とはその字が示すとおり、教えて育つものですね。そして育つ対象は、教えてもらう人と言うことになりますが、育つべき存在はそれだけではないと私は常々思っています。
例えば授業などで先生が生徒に教える内容をすべての生徒が即座に理解してくれればいいでしょうが、中にはいくら教えても理解してくれない生徒だっているはずです。そんな時、先生はこう思い悩むことでしょう。「何度も説明しているのに‥どうして、わかってくれないんだ‥」
そこで求められるのが“教え方”なのです。教え方が上手な人とそうでない人がいるとするならば、その差は何か?それは教える側に立つ人が常に“教えながら学ぼうとする気持ち”があるかないか、ではないでしょうか。
教師は生徒にいろんなことを教えますが、実はいろんなことを生徒から教わることだってきっとある。教える過程においてうまくいかない時には、あの手がダメならこの手がある、この手がダメなら他の手はないか‥などなど試行錯誤を繰り返し、何とかしようと努力することで“教え方”の腕を上げていきます。それがいわゆる経験なのです。
経験とはただやみくもに年数を重ねることではなく、上述のような努力の繰り返しの中で培われていくものだと私は思います。
教育とは教わる側も育ち、同時に教える側も育つ。両者が共に育つ共育である。学校はもちろん家庭においても同じことが言えるのではないでしょうか。子育てとは親育ちと言われるように、どんなに大変なことがあっても寄り添う気持ちを大切に日々過ごしていけばいつの日か必ずお互いの信頼の深まり共に成長することができる。学校教育も家庭教育も一方通行ではなく双方の対面通行で学び合うことがその真髄と言えるでしょう。
「突然ではございますが、交響曲第5番 ハ短調 作品67といえば‥何でしょう?」
答えは‥そう、ベートーヴェン作曲の「運命」ですが、この「運命」というタイトル、もともとはベートーヴェンが名付けたのではなく後々に付けられた“通称”だと言われています。
ではなぜ、この曲が「運命」と言われるようになったのか?
その答えは‥「運命の扉」にあります。この扉は、人がこの世に生まれて亡くなるまでの間、それぞれの人生の中で運命的な出会いや出来事に遭遇する時に開かれるわけですが、そう簡単に開く扉ではありません。それだけ「運命の扉」とは人生において重要かつ重たいものなのです。しかもむやみやたらとあちこちに扉があるわけでもなく、その数も4つと限られているというから驚きです。
まずは、この世に生まれる時に開く扉がひとつ、自分のアイデンティティや信念を持つために開く扉がひとつ、人の喜びが自分の喜びと思えるようになる扉がひとつ、最後はこの世と別れて黄泉の国へ旅立つ扉がひとつの計4つの扉が「運命の扉」で、いずれにしてもその人の人生そのものを決定づける時に開く扉ということです。
難聴の持病に苦しみながらもそのことに気付いたベートーヴェンは思わず快哉を叫ぶがごとく目の前のピアノの鍵盤を思いっきり4回叩きました。
「ダ、ダ、ダ、ダーン!」 「そうかっ! 運命の扉は4つなんだ!」
こうして交響曲第5番ハ短調作品67は生まれ、その誕生秘話から「運命」と名付けられました。ちなみに「運命の扉」を開く時のノックの数も4回だそうなので、皆様も扉の前に立った時は‥「トン、トン、トン、トーン!」と4回ノックして開けてくださいね。
子供には未完の魅力がある。これは幼稚園や保育園で30年近く子供達に携わってきた私が抱いている率直な感想です。別の言い方をすれば、子供は未完だからこそ、魅力があるわけでして、入園した時から「あらっ、私って、子供にしては完璧すぎかしら?おほほっ♡」とか「俺ってさぁ‥何をやっても最初から出来ちゃうんだよね~。もう参っちゃうよなぁ~」などと宣う嫌味な子供は未だかつて見たことがありません。ですから、あっちも、こっちも、そっちも「未完」だらけ。それはまるで「♪みかんの花が咲いている~♪思い出のみち~丘のみち~♪」(童謡:「みかんの花咲く丘」)でございます。
そんな未完な子供達が毎日見せる姿と言いますと、笑ったと思えば、突然‥泣きだしたりグズったり。時々、どこで覚えたのか、周囲もビックリするようないっぱしの発言をすることもあれば、何かをやらかして、それを隠そうとしてもバレバレだったり。そばにいて「かわいい~♡」と思うこともあれば「こんちくしょー!」と思うこともある。思うようにいく時もあれば、そうでない時もある。まさに、みかんのように甘くもあり酸っぱくもあります。
そして「未完」には「未完」ゆえに、いつかは「完成」するという可能性があることは言うまでもありません。「未完の魅力とは可能性にあり」つまり将来への可能性がある限り人は永遠に未完の状態ってことだと私は思います。
未完の魅力。子供達の伸びしろは未知数です。ならば出来るだけ多くのことを体験させてあげたい。出来なかったことが出来るようになる経験をいっぱいしてほしい。失敗したっていいんです。なにせ未完なのですから。思うようにならないからこそ面白いことだってある。そして、これらの体験・経験の繰り返しの日々の中で、ある日突然驚くような成長を見せてくれたとしたら‥これほど嬉しいことはない。そんなわくわくドキドキする未完の子供達の成長をこれからもずっと見守っていきたいと思います。
(さて、文中に“みかん”は何回出て来たでしょう?(笑))
春を迎えた幼稚園に、それぞれの色やカタチをした幼くも可愛らしい新たな花たちがやってきました。ニッコリと微笑む花もあれば、つぶらな瞳に朝露のような涙を溜めながら先生の腕にすがり付くように抱かれている花もあります。その姿を見ると、あたらめて“幼さって何て愛おしんだろう”と感じずにはいられません。
「出来なかったことが出来るようになる」すなわち、これが成長というものですが、すべての霊長類の中で、人間ほど未熟に生まれてくる動物はありません。つまり、人はこの世にオギャーと生まれた時から、出来ないことだらけなので、まわりのお世話が必要な時間が長くかかります。この「ひとりで出来ないこと」がたくさんあるという時期が乳幼児期、平たく言えば“幼い頃”となり、この“幼さこそ”が子供らしい可愛さであると私は思います。
覚束なさや危なっかしさや出来ない事がたくさんあるから守ってあげたい。支えてあげたい。ずっと見守ってあげたい。理屈ではなく本能の赴くままに手を伸ばしてお世話がしたくなる。この愛おしい存在こそが子供であり、かつ、誰しもそのような “幼い頃”を過ごして大人になったということです。
しかし時には「何度言ったらわかるの?」「どうして出来ないの?」このような言葉でついつい子供を叱ってしまうケースもあるでしょう。そんな時は、一旦、深呼吸してこう考えてほしいのです。「子供は幼いからこそ子供であり、決して大人ではない。相手が大人なら腹も立つかもしれないが、相手は幼い子供で、思い通りにならないから、思い通りにできないからこそ、愛おしいのだ」
“子供は幼いからこそ愛おしい”そのことをしっかり胸に刻んで、幼稚園に新たに咲いた花たちのそれぞれの幼い愛おしさをいっぱい抱きしめて、出来ない事が少しずつでも出来るように、今年度もたくさんの愛情を込めて関わって参ります。