室町時代の能役者「世阿弥」の「風姿花伝」に“秘すれば花なり”と言う言葉があります。歴史の授業などで聞いたことがある方も多いと思いますが「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(秘密にすれば花となり、秘密にしないと花にはならない)という意味です。
ここで言う「花」とは「野に咲く花」の外見の美しさのみならず黙って咲く奥ゆかしさや黙って散る潔さも含まれていると私は思います。さらに言えばそれは古来より日本人が美徳とした「我慢強さや辛抱強さ」、「遠慮深さや慎み深さ」そして何よりも「謙虚さ」につながる大切な心持ちや所作ではないでしょうか。
昭和を代表する日本映画の名作、山田洋次監督『男はつらいよ』‥と言っても平成生まれの方はほとんど知らないとは思いますが、この映画でこれまた昭和の名優「渥美清」が演ずる「フーテンの寅さん」の名ゼリフがこれです。
「それを言っちゃあ おしめえよ!」
そしてセリフはこう続きます。「何でも言いてえことを口にすりゃいいってもんじゃねえ。女は三界に家無し、男は外に出りゃ七人の敵。それぞれが抱えた不平不満を愚痴り罵り合ったって何の解決にもなんねえよ。いや、むしろ話がこじれるばっかりだ。だったら方法はひとつ。ただ黙って受け止めるこった。秘するも花、黙するも花だ。おめえみたいに言いたいことを言わないと気が済まないようじゃ夜泣きする赤子と同じだ。いつまで経ったって世間様からうっとうしがられるってことよ。何があっても何事もなかったように受け止められるようになってこそ本物の花になるってもんだ。秘するも黙するも花、おめえも“さくら”って花の名前なら黙って咲いて散ってみろ。わかったか!」
「みなまで言うな」という言葉もあるように、最後の言葉を言わずにぐっと堪えるのも大人の品格ではないかと自責の念を含め思うところです。
※文中の“さくら”とは『男はつらいよ』で共演の倍賞千恵子演ずる「諏訪さくら」のこと。
※寅さんのセリフ、「何でも・・」からに関しては実際の映画のセリフではありません。
「ほめて みとめて はげまして」あなたの笑顔が保育の宝。
これが当園の掲げる保育及び教育理念です。そして「どの子も我が子のように接し根気強く粘り強く責任を持ってかかわる」ことを方針として日々の保育に努めています。これを別の言い方で表せば減点法の保育ではなく加点法の保育ということです。
具体的には減点法は持ち点が100点。加点法は持ち点が0点から毎日がスタートするわけです。まず朝、子どもが登園してからその子を見る保育者の視点が加点法の場合、“元気に挨拶が出来た”「すごーい!」“靴をちゃんと靴箱に入れた”「パーフェクト!」“先生のお手伝いをしてくれた”「エクセレント!」という具合にどんどんほめてあげる場面があり点数が増えてきます。
ここで大事なのは出来て当たり前と決して思わない事です。なぜなら「こんなこと出来て当たり前じゃない!」と思った瞬間から保育者の視点は減点法になってしまうからです。日常の些細なこと―出来て当たり前のこともちゃんと出来たら「えらいね~」とほめてもらうことを子ども達は何より求めていると私は思います。大好きなパパやママ、大好きな先生に“ほめてもらうこと”“みとめてもらうこと”“はげましてもらうこと”を求めているのです。
毎日が0点からスタートすれば昨日まで出来ていたことも今日出来たらプラス。ですからどんどん点数が増えていく。しかし100点からスタートすれば減ることはあっても増えることはないのです。
コップに水が半分入っていたとしたらこれをどう見るか。「もう半分も減っているじゃない」か「もう半分も入っているじゃない」か。コップの水同様に子どもへの視点が減点法か加点法か、プラス思考かマイナス思考かで保育は大きく変わると私は思います。
幼い頃、川端通りにある川端ぜんざいを食した時、ぜんざいの甘さを引き立たせるには塩がいる。ということをはじめて知りました。
それから月日は流れ、川端ぜんざいのことをふと思い出したのは「いい塩梅」という言葉を聞いた時でした。
「あんばい」は元来、按排と書くのが正式みたいですが、私は塩梅と書いたほうがしっくりきます。そして「いい塩梅」とは、塩のさじ加減がいい、転じて「いい加減」ということになります。ちなみにこの「いい加減」、現代では、頼りない、無責任という悪い意味で使われますが、古くは「加減がちょうどいい」という意味で使われたらしいのです。
さて、ここからが本題ですが、「いい塩梅」とは何も「食」にとどまることなく、あらゆる場面で必要なさじ加減だと思います。例えば、子どもと接する時の言葉遣い、甘すぎてもダメ、辛すぎてもダメ。程よい加減でメリハリを付けて接することが出来れば、親子関係はきっとうまくいくと思います。
しかし、このさじ加減が一番難しい訳でして(汗)どうしても甘すぎたり、辛すぎたり、中には、甘からず、辛からず、そして、ウマからず・・何てこともままありますよね。(苦笑)
さじ加減が大事とわかっていても、ついつい可愛さのあまり、流されてしまったり、感情の先走りから、叱りすぎたりの毎日。でも、その中から「いい塩梅」が生まれるとするならば、それはそれでよし。ぜんざいの塩ように辛さが甘さを引き出すこともある。
大事なことは、マニュアルやレシピからだけではなく、自らの経験の積み重ねによって得られた味付けが「ええ~塩梅やなぁ~」となるような絶妙のさじ加減を見出すことなのです。
新緑の風薫る季節になりました。皐月は五月、五月と言えばやはりみどりですね。そうです、五月みどり。そして澄み切った青空に高く舞うのはひばりさん。これを美空ひばりと言います。とかいう冗談はさておき、ポカポカ陽気に誘われて外出すると身も心も開放感に満たされて何だか新しい自分に生れ変わったような気分になる。そして部屋の掃除なんかもいいですね。衣替えと一緒に使わなくなった物や要らない物を思い切って捨ててスッキリする。または部屋の模様替えなんかもいいんじゃないでしょうか。
そんなこんなができるのは五月のゴールデンウィークですね。すでに皆様もさまざまな計画をたてていることでしょうが、今年はどんたくも通常通り開催されるようで三年ぶりに博多の街もおおいに賑わうことでしょう。
さらに新年度を迎えた四月からおよそ一ヶ月。慣れない新生活に緊張しっぱなしだった方々にとってもリフレッシュという意味で大変ありがたいお休みだと思います。スイッチにONとOFFがあるように我々の生活にもONとOFFが必要です。ONだけだと疲れるしOFFばかりでは世の中が成り立ちません。ONとOFFの両方がちょうどいい塩梅で切り替わることで人は人生を謳歌できる、と私は思います。
古い歌で恐縮ですが、博多出身、武田鉄矢率いる海援隊のデビュー曲「母に捧げるバラード」の一節にこんな母の言葉があります。「死ぬ気で働いてみろ鉄矢、働いて働いて、働きぬいて、遊びたいとか、休みたいとか、そんなことお前、いっぺんでも思ってみろ。そん時ゃ、そん時ゃ鉄矢、死ね。それが人間ぞ、それが男ぞ」
ど昭和時代ならではの言葉ですが、私はこの「死ね」という物騒な言葉の意味を「休め」と解釈します。一生懸命働いて遊びたいとか休みたいと思ったらしっかり「休む」それが今の時代に則した人の生き方ではないでしょうか。ゴールデンウィークは体と心の休日です。しっかり休んで日頃できなかったことやりたかったことを楽しんでください。
新年度の四月ということでエイプリールフールにちなんで今回はウソについての話です。
私たちは子供にウソはためだ。と教育します。それは決して間違いではありませんし、ウソをつかない子供は正直で大変よろしい、となるわけですが、誤解を恐れずに言いますと、すべてのウソが悪いわけではないと私は思います。なぜなら、正直な言葉が相手を傷つけることもあるからです。
例えば美容室に行った友人が「髪型…ちょっと失敗しちゃったかなぁ…」と言ってきたとします。その時、友人の言う通りあなたもそう思ったとして「ホント!変だねぇ~」と答えるでしょうか。作ってもらった料理の味を「どう?」と聞かれて、「イマイチかなぁ~」と答えるでしょうか。もし、あなたが相手への思いやりでウソをついたとしたら、それは、決して悪いウソではないと思います。
またクリスマスにプレゼントを届けてくれるサンタさんは、子供達をファンタジックな世界に誘う作り話です。ちなみに、なぜサンタさんの衣装が赤いのか。ご存知でしょうか。それは「真っ赤なウソ」だからです(ウソぴょ~ん)。さらにアニメキャラや戦隊ヒーローは、子供達に夢や希望、元気や勇気を与えてくれる架空の存在ですが、その数はざっと800だそうで‥これを嘘八百と言います(ウソぴょ~ん)。
最後に、小噺をひとつ。ある男衆の集まりで「俺にこわいものなんてない!」と嘯く男がいました。男衆はその男が実は饅頭がこわいという話を聞いて「あいつは気に食わねえから懲らしめてしてやろう」と男の家に饅頭をどんどん持ち込みます。しかし男は「饅頭こわい」と言いながら全部食べてしまいました。それを見ていた男衆は、男に騙されたことに気付き「お前が本当にこわいものは何だ!」と聞くと「このへんで、お茶が1杯こわい」
ウソのない世界そのものがウソなので、現実の社会は必ずウソが存在します。ならば、それが自分を守るためのウソではなく、相手を思いやったり楽しませたり喜ばせたりするウソであってほしい。そうすれば豊かで味わい深い人間関係が築けると思う次第です。