あすなろコラム

~いい塩梅~ 2022.06.01
幼い頃、川端通りにある川端ぜんざいを食した時、ぜんざいの甘さを引き立たせるには塩がいる。ということをはじめて知りました。
それから月日は流れ、川端ぜんざいのことをふと思い出したのは「いい塩梅」という言葉を聞いた時でした。

「あんばい」は元来、按排と書くのが正式みたいですが、私は塩梅と書いたほうがしっくりきます。そして「いい塩梅」とは、塩のさじ加減がいい、転じて「いい加減」ということになります。ちなみにこの「いい加減」、現代では、頼りない、無責任という悪い意味で使われますが、古くは「加減がちょうどいい」という意味で使われたらしいのです。

さて、ここからが本題ですが、「いい塩梅」とは何も「食」にとどまることなく、あらゆる場面で必要なさじ加減だと思います。例えば、子どもと接する時の言葉遣い、甘すぎてもダメ、辛すぎてもダメ。程よい加減でメリハリを付けて接することが出来れば、親子関係はきっとうまくいくと思います。

しかし、このさじ加減が一番難しい訳でして(汗)どうしても甘すぎたり、辛すぎたり、中には、甘からず、辛からず、そして、ウマからず・・何てこともままありますよね。(苦笑)

さじ加減が大事とわかっていても、ついつい可愛さのあまり、流されてしまったり、感情の先走りから、叱りすぎたりの毎日。でも、その中から「いい塩梅」が生まれるとするならば、それはそれでよし。ぜんざいの塩ように辛さが甘さを引き出すこともある。

大事なことは、マニュアルやレシピからだけではなく、自らの経験の積み重ねによって得られた味付けが「ええ~塩梅やなぁ~」となるような絶妙のさじ加減を見出すことなのです。
~ゴールデンウィーク~ 2022.05.01
新緑の風薫る季節になりました。皐月は五月、五月と言えばやはりみどりですね。そうです、五月みどり。そして澄み切った青空に高く舞うのはひばりさん。これを美空ひばりと言います。とかいう冗談はさておき、ポカポカ陽気に誘われて外出すると身も心も開放感に満たされて何だか新しい自分に生れ変わったような気分になる。そして部屋の掃除なんかもいいですね。衣替えと一緒に使わなくなった物や要らない物を思い切って捨ててスッキリする。または部屋の模様替えなんかもいいんじゃないでしょうか。

そんなこんなができるのは五月のゴールデンウィークですね。すでに皆様もさまざまな計画をたてていることでしょうが、今年はどんたくも通常通り開催されるようで三年ぶりに博多の街もおおいに賑わうことでしょう。

さらに新年度を迎えた四月からおよそ一ヶ月。慣れない新生活に緊張しっぱなしだった方々にとってもリフレッシュという意味で大変ありがたいお休みだと思います。スイッチにONとOFFがあるように我々の生活にもONとOFFが必要です。ONだけだと疲れるしOFFばかりでは世の中が成り立ちません。ONとOFFの両方がちょうどいい塩梅で切り替わることで人は人生を謳歌できる、と私は思います。

古い歌で恐縮ですが、博多出身、武田鉄矢率いる海援隊のデビュー曲「母に捧げるバラード」の一節にこんな母の言葉があります。「死ぬ気で働いてみろ鉄矢、働いて働いて、働きぬいて、遊びたいとか、休みたいとか、そんなことお前、いっぺんでも思ってみろ。そん時ゃ、そん時ゃ鉄矢、死ね。それが人間ぞ、それが男ぞ」

ど昭和時代ならではの言葉ですが、私はこの「死ね」という物騒な言葉の意味を「休め」と解釈します。一生懸命働いて遊びたいとか休みたいと思ったらしっかり「休む」それが今の時代に則した人の生き方ではないでしょうか。ゴールデンウィークは体と心の休日です。しっかり休んで日頃できなかったことやりたかったことを楽しんでください。
~噓も方便~ 2022.04.01
新年度の四月ということでエイプリールフールにちなんで今回はウソについての話です。
私たちは子供にウソはためだ。と教育します。それは決して間違いではありませんし、ウソをつかない子供は正直で大変よろしい、となるわけですが、誤解を恐れずに言いますと、すべてのウソが悪いわけではないと私は思います。なぜなら、正直な言葉が相手を傷つけることもあるからです。

例えば美容室に行った友人が「髪型…ちょっと失敗しちゃったかなぁ…」と言ってきたとします。その時、友人の言う通りあなたもそう思ったとして「ホント!変だねぇ~」と答えるでしょうか。作ってもらった料理の味を「どう?」と聞かれて、「イマイチかなぁ~」と答えるでしょうか。もし、あなたが相手への思いやりでウソをついたとしたら、それは、決して悪いウソではないと思います。

またクリスマスにプレゼントを届けてくれるサンタさんは、子供達をファンタジックな世界に誘う作り話です。ちなみに、なぜサンタさんの衣装が赤いのか。ご存知でしょうか。それは「真っ赤なウソ」だからです(ウソぴょ~ん)。さらにアニメキャラや戦隊ヒーローは、子供達に夢や希望、元気や勇気を与えてくれる架空の存在ですが、その数はざっと800だそうで‥これを嘘八百と言います(ウソぴょ~ん)。

最後に、小噺をひとつ。ある男衆の集まりで「俺にこわいものなんてない!」と嘯く男がいました。男衆はその男が実は饅頭がこわいという話を聞いて「あいつは気に食わねえから懲らしめてしてやろう」と男の家に饅頭をどんどん持ち込みます。しかし男は「饅頭こわい」と言いながら全部食べてしまいました。それを見ていた男衆は、男に騙されたことに気付き「お前が本当にこわいものは何だ!」と聞くと「このへんで、お茶が1杯こわい」

ウソのない世界そのものがウソなので、現実の社会は必ずウソが存在します。ならば、それが自分を守るためのウソではなく、相手を思いやったり楽しませたり喜ばせたりするウソであってほしい。そうすれば豊かで味わい深い人間関係が築けると思う次第です。
~悲しみは雪のように~ 2022.03.01
君の肩に悲しみが雪のように積もる夜には‥」というフレーズではじまる歌があり「汚れっちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる」という言葉ではじまる詩があります。最初は浜田省吾の歌、次が中原中也の詩で、どちらも私が好きな作品です。また「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう」と天気予報みたいな歌もありますね。これらはいずれも悲しみを雪で表現しています。

なぜ悲しみが雪なのか、それは人知れず静かに深々と降り積もる真っ白な雪が、あまりにも美しく、心が震えるほど切ないので、悲しみという感情が何となくしっくりくるからでしょう。もっとも東北地方や北海道の方々にとっての雪は悲しみというよりある意味、絶望に近い辛さや恨めしさだったりするのかも知れません。

生きていれば、嬉しい事や悲しい事に出会います。嬉しさを一度も経験した事がない人はいないし、同じように悲しい思いをした事がない人もいません。悲しい経験をすることはとても辛い。その辛さは美しさの中に残酷さを秘めて降る真っ白な雪に似て深々と私たちの心に降り積もる。しかし、その雪もやがては解け、すき透るような雪解け水が心に流れ、春を迎えた嬉しさと変わっていきます。絶望が希望に変わるように。

いま私たちが直面している苦しみは何か‥。それは言うまでもありません。降る雪のようにいったん止むものも、また降ってくる。そして降り積もるたびに世の中の色を消し悲しみの白い闇に覆いつくしてしまう。

しかし、私たちはその絶望しそうなほど降り続く雪を何としても克服しなければなりません。夜明けが来ない夜はない。あしたは明るい日と書いて明日。暗闇の中だからこそ見える光もある。雪のように降り続く悲しみが解ける春はきっと‥もうすぐそこまで来ています。
~ふたつよいこと~ 2022.02.01
「ふたつよいこと さてないものよ」

我々の日常生活というものは、ラッキー!!と小躍りしたかと思えば、ガーン!!とショックを受けて奈落の底に沈むこともある。まさにその繰り返しではないでしょうか。予想もしない嬉しい出来事もあれば、まさか…と絶句するようなつらいことや悲しい出来事も必ずやってきます。冒頭の言葉は、一度にふたつよいことはない。という意味ですが、それが世の常人の常。まさに「人間万事塞翁が馬」ということですね。

しかし「ふたつよいこと」がないのなら「ふたつわるいこと」もないのでありまして、その時はつらいと思っても、後になれば「そのお陰で今の自分がある」と思えるとしたならば、悪いことも良いことの前兆と言えます。どんな暗闇の中にも一縷の希望の光がある。私はそう信じています。しかし、責任転嫁や自暴自棄に落ち込むと希望の光は見えてきません。ですから、つらいことや悲しいことに遭遇しても逃げることなく、しっかり受け止め、その中にある一筋の光明を見つける眼を持ちたいものです。

さらに言うなら「ふたつよいこと」を求めない。欲張らないことも大事なことでしょう。人間の欲望は放置すれば際限なく拡がっていきます。行き着く先には、二つどころか三つも四つも悪いことが続く最悪の状態が待っているかもしれません。

「足るを知る」という言葉がありますが、人はあらゆるものを求めすぎた時から道を誤ると言われます。無理して求めればそれと同じくらいの大切な何かを失うという生き方のバランスを意味しています。つまり「あれも欲しいこれも欲しい」ではなく「あれが欲しいからこれは我慢」という欲望選択ライフを送ることが「ふたつよいこと さてないものよ」の真髄のようです。
あすなろ幼稚園
〒811-1323 福岡県福岡市南区弥永2丁目13-7
TEL. 092-571-2400 / FAX. 092-571-2478
[MAIL] info@asunaro-y.jp