あすなろコラム

~知性と優しさ~ 2016.11.01
幼稚園や保育園において子ども同士のトラブルはつきものです。それは人にはそれぞれの自我があり、乳児から幼児にかけての成長過程でこの自我が芽生えるからです。子ども一人ひとりに芽生えた自我は、それ自体けっして悪い存在ではなく、むしろ個人のアイデンティティーを形成するためには、なくてはならないものです。

そして次に大切なのは、その自我を抑制する力です。これはまさに園で出会うさまざまな人間関係において育まれていきます。家庭では体験できない子ども同士の集団生活は自我と自我がぶつかり合うところから始まりますから冒頭のようなトラブルが生じるのです。

しかし、誤解を恐れず言うのなら、そのようなトラブルは、我々にとってむしろチャンスなのです。なぜならそれは子ども達に身に付けてほしい力を教育する機会を与えられたからです。そこで先生は次のような言葉を子どもに伝えます。「相手の気持ちになって考えてごらん」

幼稚園や保育園では子ども達の健やかな育ちを願っています。言うまでもなく、健やかとは心身ともにという意味ですが、具体的には、知らなかったことや分からなかったことが理解できるようになり、出来なかったことができるようになることです。園生活で獲得する言語や数字などの知性、さまざまな遊びや運動で育まれる体力、そして最後に、心身でいう心、つまり人に優しくできることが、その子の知性や体力の土台となって初めて知・情・体の三位一体のバランスが整った健やかな育ちになる。

「相手の気持ちになって考える」つまり「自分がされて嫌なことは相手にしない」子どものみならず大人だって、これをしっかり理解して行動できなければ、豊かな知性や技術、たくましい体力などは空しいものとなるだけではなく、社会の中で様々なトラブルを引き起こす温床となってしまいます。マスコミで報じられる事件の中にもこういったケースは少なくありません。ですから、人間関係において「人に優しくできる」「愛情を与えたり受け入れたりすることができる」園で育まれるさまざまな「出来る」のなかで、これが一番大切だと私は思います。
~叱られた子ども~ 2016.10.01
「早くしなさい!」「何度言ったらわかるの!」「いい加減にしなさい!」
親がよく子どもを叱りつける言葉ですね。もちろん恥ずかしながら私もそうです。
これは子どもを正すために叱っているのですが、子どもには案外、そんな親の願いや思いはほとんど伝わらずに、ただひとりでイライラしている親の姿しか映らないようですね。次のような子どもの詩を見て、あらためてそのことに気づきました。(タイトルは母親ですが母親だけに責任転嫁しているわけではありませんのでどうかお許しください…)

おかあさんは たいふう

きのう たいふうがきて 木がたおれました
はっぱも ぐちゃぐちゃでした
ぼくのママも こわい たいふうです
ぼくも たおれています
だけど きょうは いいてんきです

三つ叱って七つ誉めろという言葉を聞いたことがあります。
子どもは大人みたいに出来ないから「子ども」なのです。それが自然な「子どもの姿」なのかもしれません。どうしても叱らずにいられない時はありますが、毎日叱りっぱなしだったり、長々と叱るというのは、かえって逆効果になるようですね。大人だって出来るはずのことが出来ない時もありますからね。辛抱強く待つことも含めて、秋の行楽シーズンを前に子どもとの向き合い方を少し考え直してみたいと思った今日この頃です。
~ながらの善し悪し~ 2016.09.06
猛暑、極暑、激暑、大暑、厳暑、炎暑、酷暑・・等々、暑さを表現する言葉はいろいろありますが、今年ほど暑かった夏は50年以上生きてきて初めて、のような気がします。

リオではオリンピックが盛り上がっていましたが、あちらは暑いと言っても季節は冬。日本ほどの暑さはなかったのでしょう。日本のメダル獲得数は新記録を達成しました。一方、同じ記録でも日本では暑さの記録、炎天下の中で行われていた高校野球の選手や応援団の気力・体力には脱帽でした。

この暑さは、虫たちにも影響したようで、蝉も夏バテしたのかお盆前から鳴き声に力を感じませんでしたし、赤とんぼもあまり見ませんでしたし、コバエはいても普通のハエを見ませんでした。蚊もいつもより少なかったのではないでしょうか。

そんな中、最近街でよく見かけたのは歩きスマホですね。ポケモンを探してあちらこちらへ子どもから大人までが街を彷徨う姿は、まるで何かに憑りつかれた浮遊者に見えるのは私だけでしょうかねえ。

YOUTUBEでは勉強に集中できたり不眠を解消する音楽が配信されていますし、テレビを見ながら食事したり、湯船につかることができるようになった昨今。便利で快適になった反面、運転中の携帯操作や通話などいろんな問題も生じています。

むかしから「ながら族」という言葉がありますが、私も何を隠そう「ながら」の達人と自負しております。ですから、ここには書けない「ながら」生活があれこれとあります。しかし「ながら」を堪能するのは、家の中のみにしていただき、屋外では人様に迷惑がかかるので慎むことが肝要ではないかと私は思います。
~楽しいこと 嫌なこと~ 2016.07.18
誰にでも「楽しい」とか「嫌だなあ」と感じることがありますね。例えば・・・朝「よしっ!朝だ!」と気分よく起きちゃう日は、きっと楽しいことがある日でしょう。遊びに行く約束をした日曜日にやたらと早起きする子どもがそれです。

反対に「あ~朝か・・・」と仕方なしに起きる日は憂鬱なことが待っている日・・・。晴れていても心の中はどしゃ降りの雨。爽やかに流れるラジオの声や軽快な音楽も耳に入りません。おまけに食欲もなく、今日の日がなくなればいいのに・・・なんて非現実的なことまで考えてしまいます。

「嫌なこと」をイヤッと思わないで気持ちを切り替えて・・・というその場しのぎのアドバイスをよく耳にすることがありますが、これは無理です。だって嫌なことは嫌なのです。本当に嫌なのです。

しかし「嫌なこと」があるから「楽しいこと」があると考えたことはありませんか?
もし人生が楽しいことだらけだったら、楽しいことが当たり前になりすぎて嫌になる?
かもしれませんね。

つまり「嫌なこと」はイヤだけど「嫌なこと」としてちゃんと受け入れる。そして「嫌なこと」を忘れるほどの「楽しいこと」をつくって、その日を心待ちにする方が現実的だと思います。「嫌なこと」があるから「楽しいこと」がある。人生そんなもんじゃないでしょうか。いよいよ夏休み。子ども達に楽しいことがいっぱい待っているといいですね。
~順と逆について~ 2016.07.01
さだまさし(正確にはグレープ時代のさだまさし)の歌「無縁坂」の歌詞にこんなフレーズがあります。
♪運がいいとか悪いとか~♪人はときどき口にするけど~♪そういう事って確かにあるとあなたを見てて~そう思う♪

日常生活の中で運の善し悪しは確かにある。そのことは誰しも感じることだろう。強運の持ち主もいれば、運から見放された人もいる。中には運から見放されるどころか浅田次郎の小説「憑神」にあるように災いの神様(貧乏神・疫病神・死神)に取り憑かれる人もいる、かも知れない。

しかし、その浅田氏もあるエッセイの中で「人生の運不運は信じない」と述べている。その理由は、運がすべての結果を左右するなら努力の価値がなくなるからである。これにはわたくしも甚く同感するところだ。運だけに頼って努力を怠ればイチローの大記録もなかっただろうし、
実は強運とは失敗や挫折をものともせずに、ものすごい努力をした人にのみ与えられると信じてやまない。

さて、運の善し悪しと似た言葉に、事の順と逆がある。つまり順風の時と逆風の時であるが、いうまでもなく風に乗ればすいすい進むが風に逆らえばなかなか進まない。なので事を成す時はその風が順風ならチャンスだし、逆風ならたちまちピンチに立たされることだってある。弛まぬ努力を続けながらも、この風を読むということは人生の要諦のような気がする。

もしかすれば運が良かった運が悪かったという結果は、その前段階での順・逆の風を読むことができたか?ということに左右されるのかもしれない。順風と読めば大きく勝負に出るし、逆風と読めば無理をしない。結果、読みが当たれば成功するし外れれば失敗する。その場の空気を読む力、その力を養うには、やはりコツコツと努力し続けることしかないと私は思う。
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