- 「あんパン」
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2022.04.23
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~あんパン~
ある町の小さな商店通りにある古びたパン屋さん。先代の老夫婦からその店を引き継いだ私が数あるパンの中で今でもこだわって作っているのがあんパンだ。所謂、昔ながらの黒ゴマをまぶしただけのシンプルなあんパンだが、そのパンには私と先代老夫婦との忘れられない思い出という味が詰まっている。
「行ってきまーす!」
勢いよく玄関を開けて駆け出して行った。行先は我が家の御用達のパン屋さん。お父さん、お母さん、お姉ちゃん、家族みんながその店いちばんのお勧めであるあんパンの大ファンだ。1000円札をポケットに入れ急ぎ足でそのパン屋に向かう少年。それが20年前の私である。
店に着くなり、買えるだけのあんパンをトレイに乗せてレジに行くと、店のおばちゃんが「ぼく、いつもありがとうね」と親しみと優しさを込めてにっこりと微笑んでくれる。あんパンもだが、おばちゃんのその笑顔が大好きだった僕は、いつもパン屋さんのお使いを自ら買って出ていたのだ。
その日も会計を済ませたら一目散に家に帰るつもりで、ポケットに手を入れた時に気が付いた。「あれっ?」「ない‥?」念のためズボン全部のポケットをまさぐったが確かに入れたはずのお金が無くなっていたのだ。「まさか‥どこかで落とした‥」
慌てる僕を見た瞬間に、すべてを察したのだろう。店のおばちゃんは僕にこう言ったのだ。
「ぼく、お金を落としたんなら、これがそうじゃない?」おばちゃんのまん丸い手から差し出されたのは、僕が家から持ってきた折れ曲がった1000円札とは明らかに違うまっ平らな1000円札だった。
「これね、ぼくが店に入ってきた時に後ろに落ちていたから、きっとぼくが何かの拍子に落としたんじゃないかと思ってね」「よかったね、これであんパン買えるわよ」「お、おばちゃん‥それ僕の1000円じゃ‥」「えっ何?おばちゃん最近、耳が遠くなってね。よく聞こえないのよ」「1000円からだから、おつりは40円。まいどありーっ!」
店を出た後、どうやって家にたどり着いたかよく覚えていないが、情けないやら、悲しいやら、申し訳ないやら、有難いやら、いろんな思いが頭の中をぐるぐると駆け回っていたことだけを覚えている。その日、食べたあんパンは、いつもより甘くてちょっぴりしょっぱい涙の味がした。
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