「心の中にファンタジーを持てば、辛い現実を乗り切る力になる」
これはある有名な心理学者の話です。考えてみれば、幼稚園や保育園にはファンタジーが満ち溢れています。例えば絵本の世界。非現実的なうそっこの世界が、心の中に想像の翼をいっぱいに広げてどこまでも羽ばたいていく。
想像力というのは、正解・不正解の世界ではなく、いろんな発想が出来たり、またそれを受け入れたりする能力のことで、これは、昨今、教育界でよく言われている非認知能力というものです。
これは、知識や記憶力に基づいた学力テストなどで数値に表わされる認知能力とは違って、意欲、自尊心、自己肯定感、周りから認められているという気持ち、他人に流されず自分らしく生きる力、自信、粘り強さ、コミュニケーション力‥等々です。このような能力を幼児期の生活の中でできるだけ多く体験することが重要と言われています。
人が成長するには、ひとつの物差しに合わないからと言って否定されるのではなく、自分なりの世界を周りから受け入れられたことにより感じる自己存在感やさらには認められて愛されているという安心感が必要です。心の中にそのような安心・安定の世界を持つことが出来れば、自分以外のあらゆる世界をも受け入れる力が身に付きます。
そのような力を育むのが、まさに絵本の世界だと思います。まだまだ寒い日が続きますが、そんな日こそ、子どもを膝に抱っこして、安心感と想像力が広がる多くの絵本を読んであげて欲しいものです。「心の中にファンタジーを持て」これは絵本が育むあらゆる力の大切さを説いた言葉です。
「何となく 今年は良いこと あるごとし 元日の朝 晴れて風なし」 石川啄木
小生は、正月になると、いつもこの句を思い出します。そして今年は、早いもので平成時代になって30年が過ぎ、この4月には、新しい時代がやってきます。月日というのは、過ぎてしまえば、あっという間という感が否めませんね。まさに「光陰矢のごとし」「少年老いやすく学なりがたし」”The day is short, and the work is much.”でございます。
平成最後のお正月に、この30年を振り返ってみますと、さまざまな事がありました。「禍福は糾える縄の如し」「浮世の苦楽は壁一重」の言葉通り、いつの時代も変わりなく、そこに生きている我々にとって、幸運なことも不運なこともある。しかし、不運ばかりが続くわけではないから、くよくよしないで、むしろ、どんな時代に生きようとも苦楽そのものが人生だと受け入れることが肝要なのでしょう。
そして、人は新年を迎える時、冒頭の句のように、何となく感じる新鮮な清々しさが、昨年までの嫌なことを吹き飛ばしてくれるような気持ちになります。人の記憶というのは、月日とともに薄れていきます。「時薬」や「日にち薬」という言葉があるように、どんなに辛く苦しいことがあっても時が心を癒してくれるのはそのせいだと思います。
「あんなこともあったけど、今思えば懐かしい」「あの時は辛かったけど、そのお陰で今の自分がある」そう思えるようになれば月日の薬が効いた証なのでしょう。誤解を恐れず言うなら、記憶は月日と共に薄れるから、人は生きていけるのではないでしょうか。もしも、決して忘れられない辛い過去をもつ人がいるなら、その過去は過去ではなく、今そのものなのです。
さあ、新しい時代の幕開けです。月日は止まることなく進んでいきます。過去を過去にするためにも、新年は、嫌なことを忘れて、これからの自分を創り上げる絶好の機会です。過去に囚われず、今年一年が素晴しい年になりますように共に頑張りましょう。
標題の方は、小欄で以前も紹介させていただきました兵庫県の小学校で教鞭を取られ、退任後も大学講師や住職を務め55年もの長きに渡り社会に奉仕された方です。今や絶版となっていますが、この先生の残された「培其根」は教育者としての実践を記録した日記のようなもので、その中には、先生の珠玉の言葉が数多く残されています。
ある生徒の「僕は運動が苦手です」という作文に対しての先生ご返事の一部を紹介します。
「ビリであることはちっともはずかしいことではない。怠けることのほうがよっぽどはずかしいことだ。 ~中略~ 一番も二番も三番もビリのおかげで、一番や二番や三番になれているのです。とにかく堂々とビリを走ることが出来るようになりましょう。」「一番は尊い。しかし一番より尊いビリだってあるのです。」
人はやりたくなくてもやらなければならないことがあります。いやむしろ、やりたいことより、やりたくないことのほうが多いのではないかと思います。苦手な事から逃げないで堂々と立ち向かっていく勇気、そして結果ではなくプロセスが大事だという事が伝わる言葉だと思います。
また次のようなエピソードもあります。講演会での女子生徒の質問です。「わたしはバカだから東井先生が言われるような立派な人間になれません。どうしたらいいのでしょう?」
先生はこう答えられます。
「バカとは勉強の出来ない人のことではない。バカとは人生を粗末にする人のことだ。勉強が出来ないからといって、卑屈になり、すべてを投げ出してしまう人こそ本当のバカだ。バカにはなるなよ。」
その時のたったひと言で、その人の人生が変わることはたくさんあります。誰しも今までの人生で、忘れられないあの時の言葉がきっとあることでしょう。たくさんの素晴らしい言葉にふれて、これからも人生をより豊かにしていきたいものですね。
およそ、教育の場は家庭、学校、社会の3つがあげられます。言わずもがな家庭教育、学校教育、社会教育の3つ。そして、それぞれの現場で、倦まず弛まず努力されているのですが、現状は混沌とするばかりのように思えます。
まさしく教育の危機的状況といわれる状態が続いているわけですが、その原因はどこにあるのでしょう。家庭でしょうか?学校でしょうか?それとも社会でしょうか?皆さんはどう思われますか?
この手の質問を学校にすると、ほとんどが「家庭教育に原因あり」となるそうです。まあ、わかるような気もしますが、あえて私は、乳幼児教育に従事している者なので、教育の責任は学校にあると思います。
教育の成果とは「できるようになる」「わかるようになる」ことですが、それを実現するために学校ができたのですから‥。もし家庭や社会でそれが実現できるとすれば、極論ですが、学校はいらないということになります。
それに‥もし家庭教育に原因を求めるなら、その家庭を営む大人たちも学校教育を受けてきたわけで‥その意味でも教育の責任は、やっぱり学校にあるような気がします。
「学校とは教育するところ」そして「家庭とは心休めるところ」です。もし家庭が教育する場所なら、「ただいま~」「はい、お帰り!」「では、今から家庭教育を始めます」「起立!気を付けーっ!礼!着席!」これでは、疲れて帰ってきた子ども達は、たまったもんではありませんね(笑)
もちろん生活習慣や躾などは、家庭で教育することがとても大切ですが、家庭の第一義は「体や心を休める場所である」そのことを忘れることなく、楽しい心休まるXmasそして年末年始を過ごしましょう。
上智大学名誉教授で哲学者のアルフォンス・デーケンという方をご存知でしょうか。
人間の「老い」や「死」について、決して悲観することなく、むしろ前向きに受け止め
自らもガンと闘いながら、ユーモアと笑顔あふれる人生を送る大切さを説く方で、そのような著書も多く出版されています。
たとえば講演会で「私は上智大学で哲学を教えているデーケンですが、何にもでーけんです。」と自己紹介したり、いきなりドイツ語でペラペラしゃべり出して聴衆がキョトンとしてると「みなさんの中にはドイツ語よりも日本語の方が得意の方がいるかも知れませんので、あえて日本語に訳しますと‥」などと言って笑わせる。どんなに重たいテーマであっても10分に1回はユーモアをさしはさむ。
そんな彼の話で頷いたのは、グラスにワインが半分入ってるのを見て「あ~あ‥もう半分しかない‥」とガッカリする人は悲観主義者、「まだ半分もある!」とニッコリする人は楽観主義者で、同じ量のワインでも受け止め方によって違いがあるというのです。
ちなみに私は、グラスに半分のワインを見て「あ~半分しかない‥」とガッカリする人が悲観的なお酒飲みで、それを一気に飲み干して「おかわり」する人は楽観的なお酒飲みと解釈しています。(笑)
冗談はさておき、人間には3通りの年齢があるといいます。暦の上での生活年齢、健康状態に左右される生理年齢、そして気持ちの持ち方や心がけ次第で、どのようにでも変えられる心理年齢である。ちなみに‥ここでは見た目の年齢‥は触れないでおきましょう。
私たちは誰でも否応なく年を取る。生活年齢や生理年齢を受け止めながらも、心理年齢はいつも若々しく保ちながらユーモアを大切に生きていたい。だってグラスにはワインが半分も残っているのだから・・You!more wine? ユーモア ワイン?(なんちゃって‥)