ビートルズは名曲「Golden slumbers」の中で次のように歌っています。
Golden slumbers fill your eyes 黄金のまどろみが、君の瞳に溢れる
Smiles await you when you rise 君は目覚めと共に、笑顔になれる
Sleep pretty darling, do not cry おやすみ、愛しい人よ、泣かないで
And I will sing a lullaby 僕が子守唄を歌おう
特に何かをするわけでもなく、ただのんびりまったり過ごせる日というのは、ある意味とても贅沢な時間だと最近よく思います。私はこの時間を自分で勝手に「黄金の微睡」と呼んでいますが、これは心身とも疲れ果てた時に、与えられる金メダル級の何もしない時間。
スイッチで言えば完全にOFF状態の時間。人には時として、そのような時間が必要なのではないでしょうか。
トドと言われようが巨大な涅槃像と言われようが、冬眠中の熊みたいと言われようがいいんです。家の中で邪魔者扱いされようとも、ひたすらゴロっと寝転がって動かない。お腹が空いた時だけ起きて、食べたらまた寝る。そんな安穏な一日を過ごしてみるとあることに気づきます。
それは、非生産的な時間を過ごせば、必ず生産性は上がるということです。まさに冬の後に春が来るように、夜の次に朝が来るように、人の活動とは「無」から始まり「有」になる。
コロナでテレワークを経験された方の中には「家に居ても仕事するときのパパはちょっと違うぞ!」という姿を家族に披露できた方もいらっしゃるのではないでしょうか。何はともあれ最近働き過ぎでお疲れの方は目覚めと共に笑顔になれる「黄金の微睡」が是非お勧めですよ。
長引くコロナ禍で冬の寒さが余計に身に染みる昨今です。2月2日は節分ですが、今年は鬼退治ならぬコロナ退治の豆を日本中にまいてほしいものですね。
その年の1年間を象徴する漢字が毎年12月に京都の清水寺で揮毫されますが、昨年の漢字は「密」でした。まさに「密」が招いたコロナの蔓延は、今もなお続いているわけですが、日本には、古来よりその「密」とは逆の言葉が非常に大切にされてきました。その言葉は「間」です。
例えば、部屋を示す言葉は「間取り」といいますし、居間や応接間や床の間など、それぞれの目的に合わせた「間」というものが各家庭にあたりまえのようにあるのです。また文章にしても、英文を区切るのにはピリオドしかありませんが、日本文には「、」と「。」を使い分けて、読み手が読みやすいような文章の「間」があります。
ソーシャルディスタンスなどと言われ、人との距離を取ることが求められるようになりましたが、もともと人と人には一定の距離が必要とされていたので「人間」という言葉が生まれたのでは?と勝手に推測する私です。
いずれにしても、「間」という区切りや距離感は今後ますます必要となって来るのではないでしょうか。「間」がなければ、それこそ「間抜け」ですもんね(笑)
後は、その「間」をどれくらい保てばいいのか?ということになります。近すぎてもダメ、かといって離れすぎてもダメ。TPOによって変わる「間」の距離感を上手に保つことが出来れば、人間関係はきっとうまくいく。たとえ距離は離れていても心を寄せ合い通じ合うことだってできる。つかず離れずいい関係。コロナ禍の中、我々はあらためてそのことを学ばなければならないのでしょう。
「あの人はいいなあ・・・」などと他人をうらやむ気持ちになったことはありませんか。自分の嫌なところばかりが気になったり、思い通りにならなくてあせったり、思わぬ失敗をして落ち込んだり、生きていくうえでの悩みは尽きないものです。
福岡の歯科医の御子息として生れた井上陽水さんは、高校時代のある夜に、自分のコンプレックスの数をかぞえると24個もあって眠れなくなったそうです。その後、何度も大学受験に失敗し、勉学の道が自分に向いていない事を悟り歌の世界で成功を収めました。
人は思い通りにならない時、ついつい自分のまわりの人たちに目を奪われてしまい、こう思うのです。「みんな自分の道を見つけて、しっかりと歩いている。それなのに自分は・・・どこへ向かって何をしているのだろう」
この世に生れて歩む人生はそれぞれです。となりの芝生はよく見えるといいますが、どんなにうらやんでも、あなたは他人になれないし、他人もあなたにはなれません。つまり他人と自分を比較しても永遠に平行線で意味がないのです。
しかし、今までの自分から新しい自分に生まれ変わることは可能です。それは他人の真似ではなく本当の自分を見つけることなのです。他人の生き方にとらわれずに、自分はこれでいいんだ。という自覚こそが、真の自分を意識することなのです。時は止まることなく流れています。立ち止まることなく進めば、景色も変わります。良くも悪くも止まっているだけなら、やがて降り出す雨に濡れるだけなのです。他人のまねではなく自分らしく生きる一年を過ごしたいものです。
今年も余すところ2週間程となりましたが、あらためてコロナに始まりコロナで終わったと言わざるを得ない年でしたね。あらゆる業種の方々が大変なご苦労をされた一年でしたが、時の流れだけは、我々の不安や憂いを見ないふりをして、よどみ惑うことなく流れて行くんだなぁ~ということをつくづく実感します。
さて、そのようなコロナ禍の中で、外出や仕事を制限された反面、家庭で過ごす時間が増えて、あらためて家庭の良さに気づいたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。「家族間の会話が増えて家庭が明るくなった」「家族の結束がより強くなった」などの話を聞く度に、コロナ禍と言えども悪いことばかりではなかったのでは、と思います。
言うまでもなく家庭というのは「心を休める場所」です。例えば、教育の現場として家庭教育、学校教育、社会教育の3つがあげられますが、どれも人を育てるうえで、大切な場所であることは間違いありません。しかし、学校や社会が家庭と違うのは「安らぎの場所」であるかないかだと私は思います。
よく「教育の責任」という言葉を耳にしますが、この手の質問を学校にすると、ほとんどが「教育の責任は家庭にあり」となるそうです。まあ、わかるような気もしますが、あえて私は学校機関に従事している者として、やはり「教育の責任は学校にある」と思います。
「学校とは教育するところ」そして「家庭とは心休めるところ」です。もちろん学校教育を補うべく家庭で教育することも必要ですが、家庭の第一義は「体や心を休める場所である」そのことを忘れることなく、楽しい心休まるXmasそして年末年始を過ごしましょう。
新型コロナに振り回されながら春、夏、秋、そして晩秋の月日を数えて気が付けば、師走を迎え、あっという間に2020年も終わろうとしています。この1年を振り返ってみると、今までに経験したことがない、と言わざるを得ないほど、誰もが大変な思いをした年だったのではないでしょうか。
中でも私が心を痛めたのは、コロナによる謂れなき偏見や差別、誹謗中傷の類です。普段は決してそのような態度を取らない人でも、恐怖や不安、はたまた利己的な心の在り方で、行動が変わってしまったということでしょう。
人は誰しも「よい心」と「悪い心」が共存している。と私は思います。シェークスピアのマクベスは悪魔に心を売ってしまい、王の暗殺に成功するものの、最後は破滅の道をたどります。もともとは正義感あふれる勇敢な将軍だったマクベスです。計画を断行するか…思いとどまるか…。彼なりに心の葛藤はもちろんありました。しかし、最終的には魔女の予言による不安や恐怖と夫人のけしかけによる欲望に負けてしまったのです。
「よい心」で接すると人が集まり、「悪い心」で接すると人が離れていきます。この世の中に100点満点の人はいないのと同時に、0点の人もいない。要するに人と接する時に「よい心」が出せるか出せないかによってその人の価値が決まるということのようです。
昔から、いじめが大きな社会問題となっていますが、そのいじめは子どもの世界だけではなく大人社会にも存在します。子どもは社会を写す鏡です。そして社会の責任は大人にあるのです。子どもの世界でも大人の世界でも、いじめる人の心にも良心はきっとあるはずなのですが、残念ながらそれが出せないでいるのでしょう。
人間の性(さが)でもある「悪い心」をできる限り封印し、「よい心」で心温まる人間関係を築く努力を我々大人社会が実践していくことが何より大切ですね。